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サイト21 「希望と魂の歌、ゴスペル」

ここ数年、各地でゴスペル音楽への人気が高まっている。
ブルースやラップなどほかの黒人音楽と同様、ゴスペル音楽のブームもファッション性が先行する。
奴隷としてアメリカ大陸に連れて行かれた黒人たちが
神への祈りと共に歌い、希望と喜びを見い出したゴスペルの心を伝えたいと活動する。

文 宮 葉子
写真 長島明夫

月曜日の夜7時30分。京王線布田駅近くの小さな教会に、会社帰りの若い女性たちが次々と集まってくる。少し遅れて、雨でスーツの肩を濡らした男性が何人か駆け込んでくる。パイプ椅子の並ぶ簡素な室内は、ほどなく2、30代の男女50人で埋め尽くされた。

彼らは調布南キリスト教会(東京)でラニー・ラッカーさんが音楽監督を努める日本人クワイア(聖歌隊)「ブライト・ライツ・クワイア」のメンバー。ゴスペル音楽に興味を持つ人たちが、口こみや音楽雑誌などを通して集まり、週に一度の練習を続けている。
ゴスペル音楽の人気が、日本で高まっている。全国の音楽教室でゴスペル教室が開かれ、コンサートは盛況。この現象は、週刊誌や新聞でも取り上げられるほどだ。ウーピー・ゴールドバーグの主演映画『天使にラブ・ソングを2』が発端のひとつだと言われている。

1989年から東京で暮らしているラッカーさんは、これらのブームとは関係なく、教会のクワイアやコーラスグループにブラック・ゴスペルを指導してきた。ゴスペルのワークショップも開いている。参加者を募ると、100人はすぐ集まる。ひとつのワークショップが終わる度に、続けたいと言う声が上がり、新しいクワイアが生まれる。こうして現在、札幌、函館、名古屋、大阪、東京に合計8つのクワイアを持っている。参加者の8割はクリスチャンではない。
ラッカーさんの指導方針は2つある。
「キリスト教の土台に基づいて教える。そして楽譜は渡さない」
英和辞典で「GOSPEL」をひくと、「福音」という言葉に出会う。キリスト教の福音の意味だ。語源をたどると、GOOD「良い」+NEWS「知らせ」に分けられる。
『知恵蔵』(朝日新聞社)によると、ゴスペルとは「黒人霊歌。奴隷として渡った黒人が、キリスト教の聖書や賛美歌などの影響を通して生み出した素朴な宗教歌」とある。



「練習の前に必ず聖書を15分ほど読み、祈りから始めるのは、ゴスペルが神さまの音楽だからです。スタイルではなく、スピリット(魂)であり、メッセージなのです」
ラッカーさんがこう強調するのは、スタイルだけが先行し、ゴスペルの意味の抜け落ちている現象が気になるからだ。ある事柄が消費マーケットの中に取り込まれたとたん、本来の意味が消えてしまう。形のバリエーションが増え、やがて消耗されてしまうという道筋は、日本が得意とする器用さだ。
「ゴスペルがファッションで終わることが残念なのです。奴隷として苦しんだ黒人が、ゴスペルで希望を得た。19世紀後半には、貧しい黒人たちの生活に喜びを与えた。ゴスペルには、私たちは大きな愛によって生かされているという希望が今もあります。そのグッドニュースまでつかんでほしい」
ラッカーさんは、各地の音楽教室から講師の誘いを何度も受けてきた。しかし、祈りと聖書を読むことを取り入れたいと言うと、相手はきまって難色を示す。
「音楽教室の目的は、できるだけ多くの人が長く通い続けてくれることなので、それは困ると言われます。でも、スピリットのないゴスペルありえないから変ですよね。僕は2年間、空手を習ったことがあります。型だけではなく、武士道といった心も習いました。その両方を知らないと、空手を理解できないでしょう。同じことなんですが」

音楽経験はいらない。耳を頼りに自由に感じたままを歌う、それがゴスペルの魅力。


ラッカーさんは、パートごとに分かれたクワイアの前に立った。静かに祈りを口にする。雨の夜、こんなにたくさんの人を集めてくれてありがとうございます、と。突然、ラッカーさんの滑らかでよく伸びる声が、目を閉じていた全員の頭の上に降り注いだ。
- Lord , Hear Me Praying ! -
祈りが音楽に変わる。ラッカーさんがこのフレーズを何度も繰り返すと、ソプラノがそれに応えて叫ぶ。お腹から湧き出てくる喜びの声だ。アルト、テナー、バス。すべての声が重なり、空気が震える。ラッカーさんが手をぐるぐると回すと、調が上がっていく。誰も楽譜を見ていない。渡された紙には、英語の歌詞が書いてあるだけ。簡単な歌詞とメロディの繰り返しが多いので、音楽経験の有無に関係なく、人の声と合わせているうちに、自然と歌えるようになるのもゴスペルの魅力だ。

このクワイアは結成5年目。ゴスペルの音楽スタイルだけを求めて、カルチャーセンターへ移る人もいる。聖書に関心がなくても、本物のゴスペルを知りたくてカルチャーセンターから移ってくる人もいる。セミプロもいる。
会社帰りだという30代の男性は、「ストレス解消になりますよ」と言う。ブルースが好きで学生時代からバンドを組んでいたが、同じ黒人の苦しみから発している音楽でも、酒と女に救いを求めるネガティブさに限界を感じたという。「ゴスペルは苦しみさえ希望に変わる。前向きなところがいい」と彼は続ける。

楽譜を渡さない理由について、「私が教えたいのは、"How To Sing"なのです」とラッカーさんは答える。
「目に頼らず、耳だけで聴くうちに、音楽が自分のものになっていく。そのためには、たくさんの曲を、楽譜を見ないで歌うことが必要です。ピアノを10年習っていても、目の前に楽譜がないと弾けない人が多い。発表会で弾いた曲はうまく弾けるけれど、ほかは弾けない。それが日本の音楽教育。上手に弾くことが音楽の目的になっているのです」

ラッカーさんは、クワイアに向かって「ラウダー」と叫ぶ。もっと大きな声でという意味だ。その度に、声の輪が大きく広がる。「グレイト!」とラッカーさんがほめると、声がきらきら輝きを増す。
「私の子供の声はよく響くのですが、学校では周りに合わせて小さく歌うように指導されるそうです。授かったタレント、才能なのですけれど。日本の教育には、リミット(制限)が多いですね。幼稚園の運動会に行ったとき、タンバリンを渡された子供たちが「叩いていいと言うまで、静かにしなさい」と先生に言われているので驚きました。タンバリンのように音が出て楽しいものを与えられて、静かにしていられる方がおかしいと思いませんか。ゴスペルにリミットはありません。自由に感じたままを、心をこめて大きな声で歌っていけばいいのです」

ラッカーさんはあることを強く信じている。
「どの子供にも、ワールドワイドな才能が与えられているということです。それはその子のなかで、自然に表れてくるもの。おしゃべりの大好きな子は、いつも黙っていられない。動くのが大好きな子は、じっとしていられない。でも、それを親や先生がうるさいからと叱ってリミットしてしまえば、磨かれる前に死んでしまうのです。親が子供の才能をみとめ、引き出してあげることで、本物の才能へと成長していくのです」

野外コンサートに出演する。クワイアと聞き手の心を揺さぶる一体感。


クワイアたちは土曜日に東京のお台場で野外コンサートに出演する。今夜はそのための練習だ。ラッカーさんは、心の底から溢れ出る音楽を、その場の雰囲気に応じて伝えていきたいと考えているので、曲目をあらかじめ決めてしまわない。最初は戸惑い、不安がる人も多かったが、今では何が飛び出すかわからないライブの面白さを楽しむ人が増えた。 一曲、一曲を重ねていくうちに、室内の空気が熱くなっていく。ラッカーさんを中心に、音楽の糸で50人がつながっているかのような一体感が生まれる。
「みんなが心をひとつにできたときに、クワイアと聞き手の両方の心を揺さぶるとてつもない力が生まれます。口先だけの歌を飛び越えて、讃美へと変わる瞬間であり、大きな力に愛されている感謝を体験する奇跡の瞬間でもあるのです」とラッカーさんは言う。
「仕事を通して、同僚たちと一体感を覚えるときはありますが、どうしても利害の世界でしょう。利益に向かった一致団結ですからね。ゴスペルの一体感には、喜びという感動があります」と30代の男性が言う。

音楽を仕事にしたいと思っている20代のフリーターの男性は、「ここに参加してから、なぜ何のために歌を歌うのか考えるようになりました」と言う。「米軍基地で黒人のコンサートを聞いたとき、彼らがゴスペルを歌う理由が、神さまを讃えるためなんだと、痛いほど伝わりました。僕はまだまだ模索中です」と続ける。

30代。成功を求め続けることへの疲れ。そして、辿り着いた指導者としての道。

ラッカーさんは、8歳のときから自分は音楽で生きていくのだとわかっていたという。「でも、子供時代に理由なんて考えなかった。ただひとつわかっていたのは、"I Love Music."その気持ちに対して、親から口出しされることは一度もありませんでした」
ラッカーさんは、ニューヨーク州オーベニー市で、9人兄弟の5番目として生まれた。音楽の記憶は、3、4歳から始まる。
「おじいちゃんが教会でドラムを叩き、僕ら子供たちは一番前に座って、リズムに乗っていました。台所仕事をしながら、母親はいつも口ずさんでいました。そこらじゅうに音楽があふれていたのです。僕たち黒人には、DNAに音楽が刻み込まれているだと思います。つまり生まれる前から、音楽は自分の中にあったのです。

自分の賜物を人とシェア(分かち合い)する。今までに得られなかった喜びを体験できる瞬間。


バイブルスタディの風景の画像


教会でピアノを弾き、ゴスペルを歌うだけではなく、中学、高校時代には吹奏楽部に入った。友達からトロンボーンのパートでバンドに誘われて、ダンスパーティや店に出るようになった。大学には1年半ほど通ったが退学。ソウルバンドのメンバーとしてアメリカ各地を演奏してまわった。1979年には、初来日もした。そのときに出会った陽子さんと3年後に結婚した。
「大好きな音楽ができて、女の子にももてて、とてもハッピーでした。やることすべてが自分の栄光になるような気持ちでした。でも、30代になって、成功を求め続けることに疲れてしまったのです」

お金を稼ぐ音楽ビジネスの人間関係にも疲れてきた。周りにいるのは、自分の主張を貫こうとする人たちばかり。音楽だけでは生活が安定しないことにも疲れてきた。いったん音楽から離れることを決意したが、バンド仲間だった昔の友達のひと言で、再び音楽に戻る決意をする。グラミー賞をとるほど有名になった彼の自宅には、ヤマハのシンセサイザーがあった。これがあればラニーもひとりで作曲ができる、と教えられたのだ。

1985年、アメリカを発って家族と大阪で暮らし始めた。好きな音色をひとりで作り出せるシンセサイザーを駆使して、第31回ヤマハポプコンで優秀曲賞を受賞。音楽の道が再び目の前に開くのを感じた。89年、キャリアアップを計るために家族で東京に移り住んだ。フジテレビ「ひらけ!ポンキッキ」の英語コーナーに出演。オーディションで、日本のテレビには黒人の家族が出ないので残念だと話すと、子供たちとの出演をすすめられた。仕事の幅は確実に広がっていったが、心はやはり落ち着かなかった。
「次の仕事をもらえるだろうかという心配は、どうしてもなくならなかったのです。それで、私は久しぶりに祈りました。これから私が収入のことで悩まなくてもいいように養ってくださいと」

92年、自分のヴォーカル教室を始めた。ゴスペルを習いたい人たちが次々と集まってきた。夜、店で歌う必要がなくなった。
「今でも、生徒が来なくなればそれでおしまいです。それでも、不安はありません。自分が恵まれていることに気付いてから、私の心に変化が起きたのです。妻がいて、子供が3人もいて、仕事もあるじゃないかと。そのとき初めて、音楽をする祝福は、特別に与えられた恵みだと感じました。自分の賜物を与えてくださった方に、感謝を返していきたいと思うのは自然なことです」

ラニーラッカーの画像

音楽を仕事として暮らすようになってから20年間、教会からは離れていたが、「戻ろう」と思った。それは「自分が父親になったことが大きい」と言う。
「子供たちにクリスチャンとしての土台を与えたいと思ったのです。そのように育てられたことで、帰る場所のある安心が、私をいつも支えてくれました。どんなものでも、与えられたものの素晴らしさに気付くのはずっと後でしょう。それでも、土台があれば花は咲きます。親には子供の土台を作る責任があるのです」
ラッカーさんは牧師ではない。メッセージといっても、トルコ地震や内争の話など現実の事件から、日本がどれだけ快適で恵まれているか、若い人たちに考えるきっかけを与えている。「ゴスペルに出会って、人生が変わったとよく言われます。喘息が治って元気になったという具体的な変化から、いろんなことを真剣に考えるようになったという心の変化まで様々です。それはやはり、ゴスペルがスピリットを持っているからです」

ゴスペルを指導するようになってから、ラッカーさんの人生も大きく変わった。
「ゴスペルは3歳からずっと歌ってきました。そのことは変わりません。しかし、10年前、銀座や六本木の店で歌っていた頃と大きく違うのは、BGMとして音楽をしているのではなく、自分の賜物を人とシェア(分かち合い)しているところです。お酒を飲んで、ホステスさんに悩みを聞いてもらっているお客さんたちは、ただそこで時間をつぶしているだけ。家族のために早く帰ればいいのにと思ったときに、自分もそこで時間を無駄にしているとわかったのです。音楽も無駄になっていました。誰も聞いておらず、誰の生活にもプラスになっていないのですから。今は、人に何かを与えている仕事なのだと思います。私がゴスペルを通してシェアしたいことを、相手がふと理解してくれる瞬間があります。例えば、自分の力を抜いて、音楽にゆだねて歌うこを、体で理解してくれるとき。それは本当に嬉しい瞬間です」

Makes us One -
ラッカーさんが静かにメロディを口にする。「ひとつになろう」という意味の歌詞だ。みんなが目を閉じる。今夜、2時間に及ぶ練習の最後の曲だ。キーボードの音がやみ、人の声だけになる。鎮まる空気の中、どこからともなく拍手が湧き、それはいつまでも続いた。
「大きな輪の中にいるみたいだったでしょう」と隣の女性がそう言って微笑んだ。


interview この人の視点


Ronnie Rucker●ラニー・ラッカー

ニューヨーク州オーベニー市生まれ。1960年代後半ソウル・バンドに加わりトロンボーン、キーボード奏者として音楽活動を開始、FM埼玉をはじめ多くのラジオ番組でDJとして活躍。また、第一興商やKDDのテレビCMにも出演。日本でブラック・ゴスペル・ミュージック・ワークショップを始めた第一人者。

ラッカー・ゴスペル・ミニストリー 〒182-0022 東京都調布市国領町 4-33-29-A304 
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